「玄関先でこんなに笑ったのも、中松の怒り出しそうな顔を見たのも、正直これが初めてだ。あいつはいつだって涼しい顔をしていて、感情を滅多に表に出さないからな。だが、今の様子を見ていれば一目瞭然。伊織には随分と手を焼いているのが、よくわかる」
一矢はそう言って、ふっと優しい微笑みを浮かべた。
「うん、いいな。……悪くない」
唐突に一矢が私をまっすぐに見つめ、ぽつりと呟いた。
「えっ? な、なにが……? あっ、もしかしてこの服のこと……? その……鬼、じゃなくて中松が用意してくれたの。私、こういうお嬢様みたいなワンピースは初めてで、ちょっと落ち着かないけど……でも、サイズがぴったりだったから、自分でも驚いてるの」
慌てて言い訳のように口にすると、一矢の表情がふっと翳った。
「伊織。……主人が帰ってきたばかりだというのに、ほかの男の話をするのは控えた方がいい」
「ほかの男って……中松のこともダメなの?」
「当然。不愉快だ」
ピシャリと断言されて、私は思わず背筋を伸ばし直す。
一矢の「気持ち」だけは、どうしても読めない。
たぶん彼は私のことなんて、幼馴染の友達としか思っていないはず。
だから私は未だに一矢に「好き」と言えない。
「……そう素直に謝られると、少し困ってしまうな」
一矢は少しだけ困ったように眉を下げて、視線を逸らした。けれどすぐに、真顔に戻って続ける。「とはいえ、不愉快な気持ちになったのは事実だ。だから、罰を与える」
「えっ……罰!?」
一体この“ニセの旦那様”は、今度はどんな無茶なことを言い出すのか――不安がよぎる。
「夫婦というもの、夫が帰宅したときには、妻の方からキスで迎えるものだと聞いたことがある。伊織、お前も――私にキスをしろ」
「えっ…えぇえぇっっ!?」
声が裏返った。令嬢らしからぬ、素の、完全な地声で叫んでしまった。
――ああ、神様。お願い。
気を張り詰めたままの食事がようやく終わり、ホッとしたのも束の間のこと。 一矢が、ふいに「風呂に入る」と言い出した。 私はてっきりバスタオルやガウンなどを用意するのかと思い、ここは妻の見せどころ、と準備に取りかかろうとしたのだが、そういった身の回りのものはすでに使用人の方々によって、隙のない完璧な状態で整えられていた。さすがは一矢の家……私の出る幕は、なにひとつ残っていなかった。 どうしたらいいのか分からず、ぽかんとしていた私に向かって、中松がさらりと放った言葉が、私の心臓を一気に凍り付かせた。 「一矢様のお身体を、どうか洗って差し上げてくださいませ」 きゃあああああああああっ!?!?!? なななな、なにをおっしゃいましたか今ッ!?!? 「な、なななっ、なんで私がそんなことをっ!? それってつまりどういう……!」 反論しようとしたその瞬間、中松は私の抗議などものともせず、見事な力技で私をバスルームへと放り込んだ。 そして、ガチャリという無慈悲な音とともに、外から鍵が掛けられた音が響く。「ちょっと、待って! 中松っ、鍵開けてよ!! 開けなさいってばぁっ!!」 私は扉をドンドンと叩いたが、まるで鉄のように頑丈なその扉は、びくともしなかった。『これは、一矢様のご所望でございます。伊織様、どうか腹を括って、覚悟をお決めくださいませ』「で、でもっ! 心の準備ってものがっ!!」『一矢様をこれ以上お待たせするわけにはまいりません。主人の命令は絶対。どうぞ、伊織様も潔く、従っていただきたく』「無理に決まってるってば!!」『借金一千万円の肩代わり、の件ですが…』「うぐっ……わ、わかったよ、やります!! やればいいんでしょ、やれば!!!」 なんなの、いったいこれは!? 私の借金じゃないのに! お母さんが巻き込まれた形とはいえ、なんで私ばっかりがこんな目に遭うのよ……っ! このニセ嫁修行が無事終わった暁には、お父さんに臨時ボーナス三万円を請求してやるんだからっ!! 意を決し、さっきまで着ていたワンピースを脱ぎ、しっかりと体をバスタオルでぐるぐるに包んだ。 その上から就寝用のガウンを羽織り、まるで鉄壁の防御態勢。濡れることなんて、もう気にしていられない。 きっと一矢は、これまでに数えきれないほどの女性と関係を
「玄関先でこんなに笑ったのも、中松の怒り出しそうな顔を見たのも、正直これが初めてだ。あいつはいつだって涼しい顔をしていて、感情を滅多に表に出さないからな。だが、今の様子を見ていれば一目瞭然。伊織には随分と手を焼いているのが、よくわかる」 一矢はそう言って、ふっと優しい微笑みを浮かべた。 細く切れ長の目がほんの少し細められ、整った顔立ちに柔らかい光が差し込んだように見えた――まるで初夏の風のような、爽やかで心地よい笑顔。 思えば私たちは長い付き合いだけれど、こんな穏やかな表情を一矢が見せるのは稀だった。いつも気難しい顔をしていることが多いから。 それは彼の取り巻く環境のせいだってわかっている。素直に笑ったり喜んだりできなかったから、一矢はめちゃくちゃにひねくれてしまった。「うん、いいな。……悪くない」 唐突に一矢が私をまっすぐに見つめ、ぽつりと呟いた。「えっ? な、なにが……? あっ、もしかしてこの服のこと……? その……鬼、じゃなくて中松が用意してくれたの。私、こういうお嬢様みたいなワンピースは初めてで、ちょっと落ち着かないけど……でも、サイズがぴったりだったから、自分でも驚いてるの」 慌てて言い訳のように口にすると、一矢の表情がふっと翳った。「伊織。……主人が帰ってきたばかりだというのに、ほかの男の話をするのは控えた方がいい」「ほかの男って……中松のこともダメなの?」「当然。不愉快だ」 ピシャリと断言されて、私は思わず背筋を伸ばし直す。 一矢が「不愉快だ」とはっきり言葉にする時、それはほんとうに“嫌だ”というサイン。幼い頃から一緒に育ったからこそ、私は彼の癖や言い回し、考え方の癖までも熟知しているつもりだ。でも――そんな私でも、わからないのがひとつだけある。 一矢の「気持ち」だけは、どうしても読めない。 私のことを、彼がどう思っているのか。それが、怖くて聞けない。 たぶん彼は私のことなんて、幼馴染の友達としか思っていないはず。 彼の周囲には、上流階級の美しい令嬢たちがたくさんいる。パーティーや社交の場で知り合う人々も、きっと華やかで洗練されている。 汗まみれでキッチンに立ち、洋食屋で働く私なんて敵うはずもない。 だから私は未だに一矢に「好き」と言えない。 振られるのが怖くて、気持ちを打ち明ける
「「あっ……」」 私と中松は、ほぼ同時に驚きの声をあげ、一斉に声の主へと顔を向ける。 「これはこれは一矢様、お帰りに気づかず、大変失礼いたしました」 珍しく中松が慌てふためいた様子で深く頭を下げた。その姿は日頃の冷静沈着な態度からは想像もつかないほど狼狽しており――ふふ、内心で思わずニヤリとしてしまった。 こんなふうに中松が動揺するところを見るのは初めて。 主人(ニセだけど)に詫びるその姿は、まさに嫁(ニセだけど)としてはちょっぴり愉快だった。「一矢様、インターフォンはお鳴らしにならなかったのでしょうか? 玄関にてお出迎えができず、私としたことが大変申し訳ございません」「いや、インターフォンは鳴らしていない。我が“妻”がどのように修行を積んでいるのか、その様子を少しばかり見てみたくなってな。セキュリティを自ら解除して、静かに入ってきた」「左様でございましたか。まさかそのようなお考えとは露知らず……。一矢様のご意向を先に確認すべきでした。改めて、深くお詫び申し上げます」 中松はすぐさま態度を改め、完璧にスマートな所作で再び頭を下げた。そして、私の方にチラリと視線を送る。無言で訴えかけているその眼差しに気づき、私は慌てて一歩前に出た。 「お、お帰りなさいませ、一矢様」 挨拶が少し遅れてしまった。普段の私なら、ゆるめのTシャツに気楽なトップス、下はゴムの入った楽なズボンというのが定番スタイル。お洒落をするのは家族で外食するときか、仲の良い友人たちと街に繰り出すときくらいだった。 そんな私が今身につけているのは、薄いピンク色の上品なワンピース。襟元と袖には繊細なレースが施されており、丈は膝下まである。全長はおよそ百二十センチほど。柔らかく広がるふんわりとしたフォルムは、まさに“お嬢様”そのものの装いだ。 もちろん、この衣装は中松が私の“ニセ嫁修行”の一環として用意してくれたもの。一矢の趣味なのか、それとも中松の趣味なのか、その真相は不明。でも、どう見ても高級ブランドの一着であることだけは確かで、その価格は……きっと恐ろしいほど。 私は背筋をピンと伸ばし、コルセットで締め上げたお腹にさらに力を込めるようにして、その場に立った。ニセ嫁として、ここまで積み重ねてきた努力の証を――今ここで、ニセ夫にしっかりと見せなければ。 「……ほう。
あれから、いわゆる“ニセ嫁修行”なるものを懸命にこなしていたのだけれど――すでに心身ともに限界を迎えつつある。全身に疲労がまとわりついて離れず、まさに疲労困憊の極みに達していた。体力的にも精神的にも限界。もう無理。鬼のような修行に音を上げそうだった。 修行初日だというのに、この仕打ち。気力はあったはずなのに、始まってみれば予想を遥かに超える過酷さ。想像していたよりも何倍もキツすぎた。いきなり心が折れかけている自分に情けなさを覚える。 きつく締め付けられたコルセットのおかげで、辛うじて姿勢は保たれていたものの――その苦しさは想像を絶していた。息を吸うだけでも胸が締めつけられ、少しでも姿勢が乱れようものなら、すぐさま“鬼”中松の冷たい嫌味が容赦なく飛んでくる。まるで呼吸する隙さえ与えてもらえない。油断なんて、もってのほか。片時も気を抜けない、まさに戦場のような修行時間だった。 テーブルマナーに始まり、話し方や言葉遣い、日常の所作や立ち居振る舞いに至るまで――とにかく全てにおいてダメ出しの嵐。なにをしても「その程度では駄目です」「おやめください」「やり直しでございます」とピシャリ。心が何度折れかけたかわからない。それでも必死に食らいついたが、まともにひとつとして修正できぬまま、とうとう午後七時を迎えてしまった。 ようやく、“ニセ嫁修行”の一日目が強制終了の運びとなりました。 ……もう、限界。体はガチガチ、お腹はぺこぺこ。空腹で倒れそう。 そんな私の前に、またしても“あの男(オニ)”が現れる。「そろそろ一矢様がお帰りになるお時間でございます。早速、お出迎えのご準備をお願いいたします。くれぐれも、失敗は赦しませんよ」 ひいぃぃ……。まただ。出た、鬼中松。 彼はまるで鬼ヶ島から遣わされた鬼将軍。こっちは疲れて瀕死状態なのに、その無慈悲な通告はいつも通り冷たく鋭い。心の中で何度「もうやめて」と叫んだことか。 けれど――今この瞬間こそ、気を抜いてはならない。悪い姿勢のまま一矢を出迎えたり、言葉遣いが拙かったりすれば、それだけで地獄のような嫌味タイムになるだろう。それは嫌ぁぁ。 コルセットに締めつけられた身体に、さらに気合いを込めて力を入れた。 せめて今日だけは、最後の最後くらい成功させたい。 中松の嫌味でシメたくない。こんな気持ちのまま家に帰
グリーンバンブーの営業時間は、11時〜15時がランチタイム、そして17時〜20時がディナータイムだ。「中松」 扉を開けると、案の定すぐ傍で待機していた。「五時からお店なんだけど、戻ってもいい?」「婚約披露パーティーまでの期間、伊織様の夜勤は三成家での修行とさせていただきます。緑竹様からも許可を得ております。朝は七時半、午後は三時にお迎えいたします」 つまり私は、午前中の短時間だけグリーンバンブーで働き、午後からは三成家で“ニセ嫁修行”に専念するというわけだ。 付け焼刃では間に合わないと判断されたのだろう。元が元だけに。だからとにかく令嬢修行をしろ、と。「それ、先に言ってくれない? 引継ぎもあるのに」「でしたら、お店に電話なさいますか?」「ええ。今日は琥太郎に頼むわ。土曜日だし、きっと焼き場に入れるはず」「どうぞ。終わりましたらスマートフォンを返却ください。三成家にいらっしゃる間、通信機器はお預かりさせていただきます。必要な時はお申し付けください」 スマホを返してもらい、早速琥太郎に連絡を取ると、すぐに出てくれた。
自転車で五分もかからない距離をわざわざ車で送迎されて三成家に到着した。本家に比べれば小さな屋敷とはいえ、それでも十分に広くてまるで小さな城のような家。 広大な敷地に、一矢のためだけに建てられたという邸宅。中松もここに住み込んでいて、コックをはじめとする数名の使用人が出入りしている。広々としたゲストルームまで備えられ、かくれんぼでもできそうな空間。無駄な調度品は一切なく、白を基調にした上品な造りに、立派な門構え。敷地内には、一矢所有の高級車が二台、そして中松が使う送迎用リムジンが一台、計三台が並び、それでもまだ余裕があるほどの庭に、美しく手入れされた緑が広がっている。 一階が洋食店舗、狭い二階と三階が住居。大家族で暮らす我が家とは、まるで別世界のようだ。 それにしても――初恋の相手がこれほどまでに厄介な存在だったとは思わなかった。 身分差がある恋だとわかっていたけれど、まさか“ニセ嫁”としてこの家に入ることになるなんて、当時は想像すらしていなかった。 でも、これはチャンス! 一矢の本妻になれる可能性が、ほんの少しでもあるのなら――。 グリーンバンブーで働き始めてからというもの、ここを訪れる機会は少なくなっていた。久しぶりに足を踏み入れる豪邸に、思わず背筋を正して「お邪魔いたします」と丁寧に挨拶した。 磨き上げられた大理石の床。石の種類も名前も知らないけれど、高価なことは素人目にも分かる。廊下や部屋、階段に至るまで、どこを見ても隙のない美しさ。天井か